織田信長が本能寺の変で死ぬと、織田政権は一代で滅びて豊臣政権が誕生します。
豊臣政権も秀吉の死去によりこれも一代限りで終わり、家康が徳川政権を樹立し、徳川幕府は二百数十年、十五代迄まで続く長期政権となります。

戦国の英雄として同じ様に名高い三人なのに、いったい何がこの差を生み出してたのでしょうか。
信長の息子達は決して優秀ではなく、また秀吉の跡取り秀頼は異常なほどのお坊ちゃん育ちで、どちらも政権継承者としての実力はありません。
家康の跡取り二代将軍・秀忠も凡庸で、自身のみで政権を保つほどの能力がなかったといいます。

それでは、なぜ家康の死後、政権交代が起こらなかったのか。
信長は天才でした。一人で先を突っ走り、その後を追える人材のみが家臣となりました。結果、秀吉や光秀など筆頭に譜代でもない新参者が家臣団の中心となります。
秀吉は、正に成り上がり者。家臣は全て秀吉一代の寄せ集めです。

対して家康は、少年期の今川家人質時代以来の家臣が家臣団の中枢でした。
そして家康自身、それら譜代の家臣の重要性を認知しており、その育成に心を砕いています。

そんな家臣の一人、全国にその豪勇が知れ渡った本多平八郎忠勝は、「我が主は、はきと物言わぬ人」と家康を評しています。
家康は指示命令の類を細かには下さなかった様で、細部は家臣の判断に任せる部分が多かったといいます。
これは家臣を信頼している一方で、主君の意を汲んで細部はそれに即して自分で考えるられる家臣と育てるためだったともいいます。
家康の死後も、そうして育った家臣団は二代以降の将軍を助けて幕府の継続に尽力したのではないでしょうか。

組織は継続していかねばなりません。トップが変わると崩壊する様な組織では企業の維持は不可能です。
家康の人作りは、大いな参考になるのではないでしょうか。