「黒い雨」や「山椒魚」などの著作で知られる、井伏鱒二の「厄除け詩集」についてお話したいと思います。

井伏鱒二で詩というと、『勧酒』という漢詩の和訳である

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

が、とても有名です。もちろん厄除け詩集にも、こちらは収録されていますが、このほかにもたくさんの漢詩を、井伏鱒二は和訳していたことがわかります。

たとえば、中学校で真っ先に習う「春暁」という漢詩は、井伏鱒二によって

ハルノネザメノウツツデ聞ケバ
トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ
散ツタ木ノ花イカホドバカリ

と訳されています。また、李白作の「静夜思」も、

ネマチノウチカラフト気ガツケバ
霜カトオモフイイ月アカリ
ノキバノ月ヲミルニツケ
ザイシヨノコトガ気ニカカル

このように訳され、収録されています。

以上三つの、漢詩の和訳を見比べると、井伏鱒二が漢詩を訳すにあたって、言葉のリズムに非常に気を遣っていることがわかります。声に出して読み上げるととてもよくわかるのですが、定型ではないものの七音と五音を組み合わせで構成されており、そのため読んだ際のリズム感がとても良いのです。

そして漢詩は、律詩であれ絶句であれ、五言か七言で構成するというきまりのあるものです。井伏鱒二はこのことを意識して、詩を訳したのではないでしょうか。

このような「縛り」を取り入れて、外国語の詩である漢詩を和訳することは、簡単なことではなかったでしょう。しかし、作家である井伏鱒二はきっと、古の詩人たちに敬意を払う意味も込めて、もととなった詩の雰囲気をできるだけ残せるように敢えてこのような音を意識して訳したのだと考えられます。

後世に名を遺す偉大な作家は、きっとこのように前の時代の作品を大切にし、それを生み出した人の思いも大切にすることができるのだと思いました。